父の死と不思議な出来事
お父さん、ごめんなさい
前回のブログからいろいろありまして、5月に父は亡くなりました。
72歳目前でその生涯を閉じました。
死因は、誤嚥性肺炎でした。
あまりに急なできごとで、危篤の連絡を受けてすぐに病院に向かったものの、
家族の誰もが父の最後に立ち会うことができませんでした。
でも、父の頬に手を当てると、まだその頬はあたたかく、
ぬくもりは感じることができました。
遅くなってゴメンナサイ・・・
変な施設に転院させてしまって本当にごめんなさい・・・
今までいろいろとありがとうと伝えられなくてごめんなさい・・・
父が亡くなって100日を迎えようとする今でも、
後悔ばかりが胸を締め付けます。
私が父を転院させたばっかりに、苦しい思いをさせてしまったこと、
大切な命までもなくしてしまったこと、
後悔してもしきれません。
母は、そういう運命だったんだよと・・・私が自分を責めないようにという優しさで
言ってくれましたが、自分の手で父の寿命を縮めてしまったんだと思うと、
この先一生自分を責めていくことでしょう。
後悔してもしきれない悔しい思いが消えることが無くて、
父が亡くなってからの私は、魂が抜けたようになっていました。
ただ、いつもまでもこのままではいられない!!という思いで、
少しずつ前に進みながら、父の無念の思いを一生背負っていきていこうと思います。
それが父の供養になると信じて。
父だったのね・・・
父は、一旦施設に入ったものの、また食事ができなくなり、
病院に入るか、施設でこのまま看取るかと言われたのが4月。
3月中はインフルエンザの流行のために父に会えずにいたので、何もしないで施設で看取るというそんな状態にまでなってしまっていることが信じられなくて、病院に入院させて治療を受けたいとお願いしました。
入院先は決していい病院ではなかったものの、病院でだったら毎日父に会えるし、
苦しいときや万が一のときには施設よりも病院のほうが安心だと思ったからです。
一旦病状が良くなり、食事を再開するまでになったのですが、
その際に食事をした後高熱を出すようになってしまい、もう体が食事を受け付けなくなっていると医師に言われました。
急性期の病院ではこれ以上の治療は出来ないと言われて、
看取りケアのある病院を紹介されたんです。
すぐにでも転院先を探して欲しいと言われました。
その病院は、父の両親も看取りをされてなくなった病院でした。
もうそんな状態になってしまっていることがかなりショックで、
でも病院を変わるくらいなら、急に命が亡くなるようなことは無いと思っていました。
数日後、母とその病院を見学に行くと、かなりお年寄りのソーシャルワーカーさんがいて、手の震えから見ても80歳代ではないかと思えるおばあさんでした。
そのワーカーさんが、「もしかしてみたことがあるようだけど・・・」と
突然母に話しかけると、母も見たことがあると応えていました。
なんと20年以上も前に父の両親のがお世話になった際に、母が毎日のように看病に来ていたことを覚えていました。
その話しを母たちがしている時に、私は不意に誰かに背中をドン!と
たたかれた気がしました。
私は、私の後ろを歩いていた母が、私の背中をたたいたのかな?と思って、
振り向きもしなかったのですが、
後で聞くと母がやったのではないと言われました。
あの時の背中をたたかれる感覚は、はっきり残っていて、
今思うと父が私に、この病院には入りたくないと合図を送っていたのかもしれません。
父も父の姉妹もこの病院にあまりいい思いがなかったので、
この病院に入るのなら・・・・と感じていたのだと思います。
病院では、もし入院した際は、この先点滴治療はするが、その際に栄養剤のほとんど入っていない点滴にするか、高カロリーの栄養が摂れる点滴にするか選ぶように言われました。
もしも、栄養の無いものを選ぶとすると余命は1カ月ほどだとハッキリ言われました。
父の状態を見ていると、もうこれ以上苦しい思いをさせたくない・・という思いと、
家族が父の寿命を勝手に決められないという辛い選択を迫られました。
私的には、もうこれ以上苦しい思いをさせて命を長引かせるのは、今の父にとって辛いだけなのではないかと言う思いがありました。
心が冷たいのかもしれませんが、
食べられない=死を覚悟しなくてはいけないと思う気持ちがあったからです。
もうこれ以上苦しい思いをさせたくないと強く思っていました。
でも、母や弟は、それでも生きていてほしいと思っていたようで、
母の気持を考えると、弟も高カロリーの点滴をするほうがいいのではないかと考えていました。
私は嫁にいった立場なので、自分の気持ちは伝えましたが、
決断は、母と弟にまかせると話しました。
数日悩んだ末に、弟が高カロリーの点滴をすると決めた矢先。
父は容態が急変し、亡くなったのです。
家族思いの父
いつも父は自分のことよりも、家族のことを一番に考えてくれる人でした。
父が亡くなった日も、祝日でみんなが集まれる昼間を選び、
苦しい姿を誰にも見せずに、一人で旅立ってしまいました。
ゴールデンウイーク中に、すべて葬儀を終えて、
休み明けには普通に私は何もなかったように仕事に行きました。
父が亡くなる1か月前から新しい職場に入った私を気遣ってくれたのかなと思います。
孫も親族も全員集まれるこの日を選んだ父。
寂しがり屋な所もあったので、みんなの顔を見たくて
この日を選んだんだね。そんな気がしています。
病院での看取り
亡くなる数日前に、喉の渇きを訴えて、ガーゼで口を拭いてあげたのが
私と父の最後の時間でした。
もうその時は、喉が渇いて仕方がないようで、話も出来なくなっていましたが、
しきりに乾いた口を空いて訴えていたんです。
誤嚥を防ぐために水分はもらうことができず、母が見かねてガーゼを湿らせて、
口を潤してあげていたのです。
私が母の代わりにすると、ほんの少しの水でもホッとしたように
身体の動きを止めて水を吸っていました。
どんなに喉が渇いていたんだろう・・・・。
私たちが帰ろうとすると、嫌!というような感じで父は訴えてきましたが、
あまり長居ができない病院だったので、泣く泣く父にまた来るからね!と別れを言ったのが、私と父の最後の会話でした。
脚のむくみがひどく、もう長くはないのかもしれないという思いが母にはどこかあったそうですが、それから3日後に父は亡くなり、あまりに急で誰もがこんなに早いとはと
驚きました。
亡くなった際には、体中の水分がすべて抜け落ちたように、
カラっからに口の中が乾いていました。
これじゃ本当に辛くて苦しかったよね・・・。
何もできなくてごめんね・・・。
病院ではもっと苦しくないようにケアできないものだったのだろうか?
死を迎えるということは、こういうことなんだろうか?
いろいろな疑問はありましたが、もう父は戻ってきません。
今さら何を言っても意味がないから、病院には何も言いませんでしたが、
私たち家族が2度とこの病院を選択することは無いでしょう。
ここでも後悔や様々な思いが今も交錯します。
父が亡くなる前日
ふと誰かがみている?誰かがいる?そんな気がして、子供の塾の迎えをしている際に、
車の窓のそとを見ました。
白いものがふーっと空に昇って消えたような不思議な気がしたのです。
「あれ?まさか?」と一瞬不安な気持ちが頭をよぎりましたが、
その後連絡もなかったので、私の考えすぎだったのかなと思いました。
でも、次の日の朝9時前に父は急変したのでした。
今思うとやっぱり最後に父が私に会いに来てくれたんだと思います。
霊感があまりない私ですが、今ならあれは父だったと確信できます。
声をかければよかったな・・・
なにか私に言いたいことがあったのかな・・・
もっと話をしたかったのかな・・・
葬儀の日
葬儀はゆっくり悲しんでいる間もなく、いろいろな取り決めと段取りであっという間に過ぎました。ただ涙がとめどなく流れては止まり、ふと落ち着くとまた流れるという繰り返しで、しっかりしなきゃと思いながらも動いていた気がします。
葬儀の際も、私の左側に誰かの存在を感じていましたが、
それは父だったのでしょう。
私だけでなく、姪も同じように言っていたので、間違いないでしょう。
弟は、窯に入る最後の別れの際にに父の声を聴いたそうです。
「あとは頼むな!!」と言う父の声を。
自宅に戻ってからは穏やかな表情になって、病気をしている際の顔とは別人になった父でした。
元気だった時は、日焼けをしてがっちりしてどちらかと言うと四角い顔をしたごっついイメージの父でしたが、最後は本当に天使のように見えました。
身体の自由も利かず、頭もしっかりせず、不自由な苦しい思いから開放された穏やかな父の表情を最後に見られたことが、唯一の家族の救いでした。
後悔先に立たず・・・と言いますが、いろいろと悔やんでも悔やみきれない思いが残る父との別れでした。
元気だったらもっともっと親孝行したかったなと思っても、
居なくなってからでは何もできません。
この先は後悔がなるべく少なくて済むように、
1日1日を大切に過ごしていきたいものです。
後悔しない人生を送れるように、父の分まで今を大事に生きていきたいと思います。
お父さん、いろいろ教えてくれてありがとう!!
愛してくれてありがとう!
いままで本当にありがとうございました。
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